本と砂糖壺

本と散歩と、あれこれ

なんで、こうなったの?

今週のお題「夏を振り返る」

私は今、これを病院のベッドで書いている。5時過ぎに目覚め、少しぼーっとしてから、おめざにポリフェノール72%のチョコレートひとかけと、前の日に自販機で買ってきて冷蔵庫に冷やしておいたジョアを飲む。ん、おいしい。それから、朝食までは、lineをチェックしたり本を読んだりして過ごす。誰にも邪魔されない静かな時間。私の好きな時間だ。

病院なのに、随分呑気だねと思われるだろうか?
それもそのはず、私は骨折患者。怪我した部位は痛いが、その他の部分は元気、内臓にも問題はなく、口も減らない。
そうはいっても、手術直後は、本当に辛かった。やっとここまで来たという感じ。
夏の終わりのあの日、乗っていた自転車かなぜかバランスを崩して転倒。肘を粉砕骨折した。時間を巻き戻せるなら巻き戻したい。あの瞬間の前に。

今年の夏は、特に旅行などには行かず、なんとなく消化不良に感じていた。夏を共に楽しみ、共に出かけた子どもたちはみな大きくなり、各々が夏を満喫していた。本当に有難いことに、私は両親揃って元気。つまり介護の必要性はない。いくらなんでも、孫も、いない。自分のために、時間が使えるときが来たんだと、じわじわ気がついたのもこの夏である。同世代の友人たちとも、そんな話をすることが多かった。この夏は、高校時代の旧友や職場の友人、最近意気投合した同業者の心の友と、都会へ出かけて話し込んだものだ。話の終わりには、決まってこう言う。「私たち、これからはもっと自分のために、時間もお金も使わなきゃね。」

そんな矢先の自爆事故であった。「もっと自分のことをよく考えろ」という天からのメッセージかもしれないと、この頃考えるようになっている。入院当初は、職場復帰がどうなるかが、とにかく気になって仕方がなかった。しかし、じわじわわかってきたことには、骨折手術の入院は、退院までとても時間がかかるということ。私の場合、一応入院期間は3週間と示されたが、あくまでもめやすにすぎない。術後の傷が癒えるまで時間を要するのと、その後のリハビリにある程度目処がついて、ようやく退院となるのだ。そんなだから職場復帰となると、今の状況では、さっぱりわからない。
不安だ。あせるなというもう一人の自分の声が聞こえる。


非正規の不安定な職ながら、私は自分の仕事が好きで、わりと仕事人間だったと思う。それが、あの瞬間を境に、突然シャットダウン。ありきたりだが、仕事よりもなによりも、自分の体こそ大切だと思い知った。手術の不安をくぐりぬけて、大袈裟だが、生きていることのありがたさを痛感した。病院で働く方々の姿を目の当たりにして、私の見ていた世界は小さかったなと、自分の無知を恥じた。

あの瞬間に巻き戻せるならと書いたが、私は、自分に起きたことを受け止めたい。
自戒とともに、そしてこれからのために。これがこの夏の私の振り返りである。


なお、ことの顛末は、もうひとつのはてなブログ「てくてくわくわく街道ウォーク」に詳しくかいています。よろしかったら、ご覧ください。

本屋大賞ノミネート作品を読む! ③

 3回目に取り上げるのは、『さざなみのよる』(木皿泉 河出書房新社)です。

 

 今、ブログを書くにあたり気がつきました。タイトルの『さざなみのよる』、全部ひらがなですね。「さざ波の夜」でも「さざなみの夜」でもなく、「さざなみのよる」。しかも表紙の題字は「さざ なみ の よる」という配置になっています。ひらがな表記でゆるい感じにして、さざ なみ よる と漂っているような感じ。何が漂っているって、「いのち」かなあ? 

 表紙の絵、よーく見るとこれも不思議。タイトルのある表面が都会の夜の街、裏面が昼の山里。カンバスに描かれた油絵風のタッチで、抽象画っぽい。(誰の画かなと思って奥付を見たら、絵本作家の荒井良二さんでした。納得)

 山里の空や都会の空間の中をふわふわ漂っているのは、星や光かと思いきや、これまたよーく目を凝らすと、鳩や猫に混ざって、お魚や電気スタンドや椅子やUFOも浮かんでいる・・・すべてがぐるぐると回っているような宇宙のような・・・。とにかく見れば見るほど不思議になってくる画です。でもって、この本も、まさにそんな物語なのです。

 

 一人の女性が、若くして(40代)亡くなる直前の場面から物語は始まります。女性の名前はナスミ。末期癌でもはや体の自由はきかず、親族が自分に会いにくる中で、もう長くはないなあと悟り、「死ぬって言われてもなあ」と心の中でつぶやくのが、物語の冒頭です。ほどなく目を開けることもできなくなり、周りがバタバタとした緊迫感に包まれ、どこか別の部屋に運ばれていく自分を感じて、やがて人生の幕が下りるという時、「なんだ、私、けっこういい人生だったじゃん」と思う・・・

 

 これを第1話とし、この後続く第2話からは、彼女の夫や姉といった別の人間が、それぞれに彼女の臨終を振り返ったり、あるいはお通夜に参列する同級生の男性が、ナスミとの想い出を回想したりします。さらに、数週間後(?)にお焼香に来た元同僚とか、7か月後にナスミの訃報を聞いた女性(ナスミの知り合いの男性の妹)とか、入れ代わり立ち代わり様々な人物が「ナスミ」について回想するのですが、年月が経過していくとともに回想する人物が「ナスミ」の周辺から広がっていく展開が面白いです。

 亡くなるという悲しい場面からの、そして、一人の女性の人生の終わりの場面からのスタートなのに、今はもうこの世にいない「ナスミ」の人間関係からたくさんの話が生まれ、物語が編み出されていく様に、「人生っていいもんなんだな」と思えてしまうのがこの物語のよいところなのではと思います。

 

 とてもテンポの速い物語です。最初はご臨終→ご臨終直後→お通夜→数か月後・・・というようにゆっくりなのですが、そのあとは数年単位で飛んで、最後はびっくりするほどぶっ飛んでしまいます。ネタバレになってしまうので詳しくは書きませんが、ナスミが生きたのは、昭和の高度成長期からバブルを経て平成なのに、ラストは、冒頭のナスミの臨終からおそらく100年以上飛んでしまっています。

 近未来小説ではなく、普通に日常を切り取った描写の作品であるだけに、未来に飛ぶのは何だか不自然でなりません。描かれている未来は、近未来でもなんでもなく、平成の日常風景と変わらず。まあ、ここでいきなり近未来小説のタッチになるのも、それこそ不自然ですが。こんなに先の時代まで飛ばさなくても、この小説の世界のよさは十分に伝わるのに残念です。全部で14話まであるのですが、失礼を顧みず言うならば、13話まででよいと思います。12話まででも十分です。

 

 残念な部分はありますが、メッセージはすごくよく伝わる作品なので◎。でもやっぱり不自然さが残念なので、本屋大賞にイチオシかというと、どうなんだろう?というのが私の感想です。

 

 ここまで読んでくださりありがとうございました。また訪ねてくださると嬉しいです。

 

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アラフィフの未来、占います。

 アラフィフに未来予想図が描けるか? 未来は若者のもの?

 いやいや、われらアラフィフの未来も、案外捨てたもんじゃない。

 若いときは、未来はどこまでも続いていて、つかみどころがなかったけれど、人生の折り返し点はとっくに過ぎた(たぶん)今となって、かえってやることが見えてきた気がする。「やること」っていうか、「これだけはやりたい」とか、「これならできる」とかいうことが・・・

 

仕事運

 今からバリバリの正社員になることはできないけれど、ささやかな一歩を踏み出すことはできる。このブログのプロフィールで公言してしまっているが、一応ライター志望。「シュパッ!(点火する音)のライターではないよ~」などと、ダジャレで照れ隠しをしながら家族や周囲の人に冗談交じりで話しているが、割と本気。若いころから文章を書くのは好きだったな。「市民記者」という肩書でタウン誌に寄稿していたこともあったっけ。原稿料1本840円。

 今はこうして発信の手段が増え、いい時代になったなぁと思う。長生きはするもんだ・・・ってそんなにトシではないけれど。

 

健康運

 これは切実。自分が病気になるなんて思ってもいなかった私が、一気に自信を無くしたのが、乳がん検診で「要精密検査」と言われた時。「現段階では、ガンと認めらる所見はない」と言われ続けて10年。一方で、数年前から膝を痛め、走れなくなった。更年期のせいだろうか、肩も腕も痛かったりする。10年前より明らかにガタが来ているのに、なぜか気持ちはニュートラル。「どこも悪くない」いうわけにはいかないなという静かなあきらめがあるような。でもやっぱり病気は怖くて、絶妙なバランス。

 膝痛には筋肉をつけるのがいいらしい。だからだろうか。世の中は、プロテインと、サラダチキンと、スポーツジムが空前のブームで、私もブームに乗って、ジムに行ってもいいかもしれないなんて考えたりしている。中学でも高校でも、体育の授業は大嫌いだったのに。運動系の部活には、ついぞ入ったことがなかったのに。

 体を動かすことは大事だよと思っている自分がいる。おかしい。歳をとってみないとわからないことってあるもんだ。

 

金運

 今までを振り返って、これはイマイチだったと思う。原因はなんとなく自分でもわかっている。贅沢はしないが、たまらないのだ。ケチではないと言えば聞こえがいいが、要するに計画性がない。これは必要だと思うと、お金を使ってしまう。特に自分への投資ということで、何かの勉強とか、資格取得とかに弱い。

 大学を卒業して正社員になりずっと働き続けてきた友人と比べ、いったん退職して、10年前から非正規で仕事を再開した私の生涯賃金は、格段に少ない。もし、20代の自分に忠告できるならば、若いうちに生涯続けられる仕事を見つけて、そしてやめるなと言いたい・・・ とこんな話をしていたら、人生の先輩の知人に「仕事をしていたらあなたはきっと3人の子どものお母さんにはならなかったわよ」と言われ、そうかもしれないと思った。そもそも計画性があれば、生涯の仕事を見据えた人生設計をしていただろう。成り行きの風任せから生まれた私の人生&子供たち。これもまたよし。

 そうは言っても、お金は大事。特にこれからは稼げるお金はそう多くないし。よくよく考えて使わねば。実は、4月から金銭出納帳を付けようかと思っている。未来のために。(逆に今までつけていなかったのかと、突っ込まれそうだけれど。)

 

総合運

 悪くない。とりあえず、あと20年でできることを考えよう。健康に気を使いながら、時代の波に乗ってやりたいことを実現しよう。

 そうして20年楽しく過ごしたら、また別の未来地図を描いたらいい。そのときは、流行に振り回されない仙人みたいな暮らしもいいな。いやいや、案外、今と同じように、欲張りかもしれないな。

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本屋大賞ノミネート作品を読む! ②

 今回取り上げる作品は『ひと』(小野寺史宜 祥伝社)です。

 

 高校生の時に事故で父親を亡くし、女手一つで育ててくれた母親を、故郷の鳥取に残し上京してきた主人公、「僕」の日常は、ある日突然変わってしまいます。母親が、原因不明の突然死をしたというのです。きょうだいもなく、身を寄せる親戚もなく、文字通り「天涯孤独」。仕送りもなくなり、大学を辞めて友だちも去りました。安売りのカップラーメンでしのぐ日々の中で、ある日、商店街の総菜屋で、最後の一つの50円のコロッケをおばあさんに譲ったところから、物語が始まります。総菜屋でアルバイトを始め、調理師免許取得を目指して、一歩を踏み出したのです・・・

 

 とまあ、こんな感じなのですが、ツッコミたいこと、いろいろ。仕送りが途絶えて中退というくだり、大学にはしかるべき制度があるんじゃないかな、とか。主人公の気の毒な状況がつぶさに述べられていますが、感情移入できません。「しっかりしな!」と言いたくなってしまうのです。帯には「泣ける」とか「感動した」とか賛辞がすごいのだけれど、それほどかしらん?

 たぶん絶賛している人たちは、控えめで優しく、一歩引いて人に譲る「僕」の性格に共感を覚えるのでしょう。そこがどうにも私にははがゆく、若者らしさもないように感じてしまうのです。

 

 読みやすい文体で、数時間で読了。終盤になって、やっとこの青年の良さが理解できた気がしました。両親は何も残せず息子を残して逝ってしまったようだけれども、優しく誠実に生きるということを、息子のDNAに残していったらしい。そして、息子はただ優しいだけでなく、優しさの上の「強さ」も身につけたことが証明されたラストに、「あっ」と思いました。

 本屋さんの店員さんがすすめるのは、こんなあたりかもしれませんね。じわりと効く一冊です。やや地味かな?という印象なので、他のノミネート作品と並ぶとどうなるか・・・?

 

 

 

 

 

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本屋大賞ノミネート作品を読む! ①

 2019年本屋大賞ノミネート作品を読む! ①ということで、たぶん②③と続く予定です。よろしくお願いします。

 一作目は、『そして、バトンは渡された』(瀬尾まいこ 文芸春秋)

 

 主人公は森宮優子17歳。3歳になる少し前に母親が交通事故で亡くなり、父親に育てられるも小学校4年生で別離。父親の再婚相手で今はもう別れている「義母」に引き取られることに。その後も親と呼ぶ人は次から次へと変わり(いずれも血はつながっておらず)、現在は「森宮さん」と二人暮らしです。

 

 父親が3人、母親が2人、苗字は4回変わるという数奇な運命を背負って生きてきたわけですが、全然不幸ではないという優子の言葉に、「ウソでしょ!」とツッコミを入れたくなります。実際、設定にかなり無理がある気がして、最初はどうにもこうにも物語に入り込めなかったのですが、後半になるにしたがって、あり得なさそうな設定に、むしろ引き込まれているのに気が付きました。「もしかして、この小説、いいかもしれない・・・」

 

 中でも物語を面白くさせているのは、三人目の父親「森宮さん」。一流企業のエリート社員の「森宮さん」は、真面目で理解のある父親かと思いきや、実はトンチンカンで不器用で、父親というより少し年上の(36歳)変わり者の大人なのだけれども、「父親」らしくあろうとする様子がコミカルに描かれています。コミカルだけれども一生懸命なのがすごくいい。

 「森宮さん」だけでなく、この物語に出てくる大人たちがみな、優子のためにそれぞれのやり方で愛情をかけている。そうして大人たちの間をリレーされ、素直に順調に成長した「優子」こそ、このリレーにおける「バトン」なのだなあと、これまた途中から気が付きました。出来過ぎだ、ありえないという感想は変わらないけれど、小説なんだからあり得ない設定でもいいじゃないかとも思えるようになりました。

 ラストもなかなか良いです。まあ、こうなるだろうなあと想像できるラストですが。性善説のうえに成り立っている物語世界だと思います。それもまたよし。

 

 瀬尾まいこさんの作品は、他には『あとすこし、もう少し』を読んだことがあります。こちらは駅伝大会に挑む中学生の話。デコボコチームが本番に向けてどうまとまっていくか。中学生に読ませたい良書という感じ。それもそのはず、瀬尾さんは、学校の先生をしていたこともあり、物語の中になんとなく「教員目線」があるのです。だからでしょうか、この本は学校の先生には評価が高いのですが、私は実はあまり・・・。面白みに欠けるというか・・・ それに比べると、このあり得なさそうな設定の今回の作品は、面白かったし、引き込まれました。

 本屋大賞、どうなるでしょうね? 他のノミネート作品も読んでみます!

 

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天からの手紙

今週のお題「雪」

 『雪は天からの手紙』とはよく言ったもの。中谷宇吉郎という科学者による本の題名である。こんなにしっくりくる言葉はないと思う。

 この本は、厳冬の十勝岳のふもとで、中谷氏が雪の結晶を作り出すプロセスなどをやさしく語る味わい深いエッセイ集だ。岩波少年文庫から出版されているので、10代の子どもたちでも読める・・・はずなのだが、正直に言うと科学オンチの私にはちょっと難しい。頑張って読もうと思わないと、頭に入らない。それでも「雪は天からの手紙」というフレーズは、それこそ天から降りてくる啓示のように、すとんと頭の中に収まった。なぜか。

 

 天からの手紙はロマンチックだ。昨日までの灰色の街を、一夜にして銀世界にしてしまう。やけに静かだなと思って雨戸を開けると、案の定、ベランダの手すりにも、隣の家の屋根にも、庭木にも、5センチも積もった雪。こんな光景を目にすると、「おお!」と第一声を発してしまう。銀世界はファンタジック。

 

 天からの手紙は過酷でもある。うっすらの雪化粧ならまだしも、白銀の世界ならばこの後待っているのは雪かき。そして過酷な通勤。受験生ならばもっと切実。「頼むから雪はやめてくれ」という声が聞こえてきそうだ。

 それでも私たちは立ち上がる。朝一番に、家の玄関から門までの雪を軽くどかす。家族が出かけられるように、門を出てから角を曲がるまで、一人分の道をつけてみる。ついでにもう少し幅広にかいてみる。そうこうしているとご近所さんが出てきて、本格的な雪かきになってしまったりもする。一区切りがついて家の中に入ると、体中ポカポカで、やり遂げた感じが気持ちいい。

 仕事があると、そんなご近所さんに「ごめんなさい」という気持ちでいっぱいになりながら家を出る。私の場合、普段は片道4キロの自転車通勤なのだが、バスはあてにならないし電車も遅れるから、職場まで歩くことにする。一日目の雪は、まだべちょべちょでないから歩きやすく、キュッキュと音がして楽しい。銀世界に見とれながら歩くと、意外に早く到着する。その日は一日、体の中からポカポカで、快適に仕事ができる。

 雪は天からの試練であり、乗り越えた後の充足感も与えられる。

 

 雪の多い地方に住んでいる知り合いは、ちょっと雪が積もると街も交通機関も麻痺する東京の様子が信じられないと言う。雪が降っているというのに、ハイヒールで出かけて道路を横断して転倒したなどという話がニュースになったりするが、万全な備えをしている雪国ではあり得ないと。

 これも異常気象の一種だろうか。ここ数年は都市部でびっくりするような積雪に見舞われることが増えた。特に5年前の2月の大雪は、衝撃的だった。前日の夜からこれでもかこれでもかというくらい降り続け、朝起きたら、雪で家の玄関が開けられないくらい吹き溜まりになっていた。庭のプランターも濡れ縁も痕跡がなくなるくらいのドカ雪だ。幸い土曜日だったので仕事が休みだったのは助かったが、我が家の次女は高校の土曜授業の日で、「その恰好はないんじゃないの?」という親の忠告に耳を貸さず、ミニスカートにローファーで出かけて行った。1時間も経っただろうか。まさに半泣きで帰ってきた彼女の足は、ゆでだこのように真っ赤。(ハイヒールで転倒したというニュースの女性とさして変わらない。)いくらも歩けず、家から500メートルほど行ったところで、寒さに耐えかねてコンビニに駆け込みスマホを開けたら、Twitterに休校の情報が上がっていたという。

 後日保護者会で、「家から出すときは子ども任せにせず、長靴をはかせる」「無理して出かけないという判断を親子でする」といった苦言が呈されたが、情報発信が遅れた学校も学校である。学校にたどり着いた生徒は、玄関前の「本日は休校です。」という貼り紙一枚で帰されたというのだから。もっとも、これより学校では「23区内および居住地区で大雪警報が出ているときは休校」と明言するようになり、軽卒だった我が子も、ミニスカ&ローファーはNGだったと反省した。お互い学んだわけだ。

 雪は天からの警告であり、私たちは警告から学ぶ。

 

 雪は天からの手紙である。それはファンタジックだが過酷で、試練と警告を含む。手紙の意味は深い。

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バレンタイン義理チョコ事情

今週のお題「わたしとバレンタインデー」

 

 根が生真面目なのかもしれない。私は義理でチョコを贈るのは失礼なのではないかと、ずっと思っていた。だから、職場で女子グループから男性陣に贈る「組織的義理チョコ」以外は、義理チョコを贈ったことはない。

 しかし先日、「義理でも貰うのは嬉しかったなあ・・・」という声を聞いて、「あ、そうか」と思った。

 この辺りのこと、実は前回のブログに書いたのでよかったらお読みください。

 

www.lupinus-satoutubo.com

 

「義理」の中に相手を大切に思う気持ちがこもっているならば、義理チョコもまんざらではないのだろう。

 

 例えば「組織的義理チョコ」。「いつもお世話になってます」ということで女性従業員で男性陣にチョコレートの差し入れをするというのは、悪いことではないけれど、「どれでも持って行っていいです」というメモ書きとともにまとめて置かれていたらどうだろう? これはただのおやつ。バレンタインのチョコという気はしない。いかにも安っぽいチョコの詰め合わせが買ってきたままの段ボール箱に入れてあったりしたら、ただのおやつを通り越して失礼かも。

 

 幼稚園のママ友同士で、子ども名義で贈り合う義理チョコもある。ママの思い付きだとしても、子どもの手でやり取りされるかどうか、曲がりなりにも「バレンタインデーのチョコの贈り物」の体裁をとっているかどうかで、受け取り側の心持ちも変わる。ママからママへ、「これ、バレンタインデーに○○君へ」と渡したのなら、それはただのおやつ。そうかといって、我が娘は嫌がっているのに無理やり渡させたりしたら、かえって失礼。そういうやり取りは、もっと普通の時にすればいい。

 

 難しいのは、義理か本命か、判断しにくい場合。組織的義理チョコや代理義理チョコ(ママ友同士のやりとり)は、受け取る側も義理だとわかっている。たいていの場合、「義理堅さ」に感謝して、ありがたく受け取る。チョコ1枚で人間関係が円滑に。めでたしめでたし。

 しかし、贈る側は義理チョコのつもりなのに、受け取り側が勘違いしてしまったら。ほどなくしてそれが義理だとわかったら?

 こういうケースは往々にして中高生によくある話。彼らにとって義理か本命かは、バレンタインデーの大問題である。

 他人への「義理立て」が大事な大人は、義理チョコも巧く利用している。そもそも「義理チョコ」なるもの、誰が言い出したのかは知らないが、大人の発想である。

 

 先日、面白い本を見つけた。『うっとり、チョコレート』(河出書房新社)だ。

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 青木奈緒、浅田次郎、阿刀田高・・・ほか38名の作家、著名人のチョコレートにまつわるエッセイを集めたもの。帯には「バレンタインも悲喜こもごも。切なく、ほろ苦い思い出も収録。」とあるが、「非」や「ほろ苦い」思い出には、「義理チョコ」がらみが多い。内容を少し紹介する。

 

 東海林さだおさんのエッセイは面白かった。

 義理チョコももらえずに行きつけのスナックに行くと、カウンターにチョコレートが山盛りになっている。薄く安く愛情のかけらもないような、いかにも安そうなものばかり。せめて手渡しでもしてくれれば救われるのに、自分で取れという。こういうのは、何チョコというのか。義理も人情もない・・・ 

 といった内容。「おお、これだこれだ」とポンと膝を打ちたくなった。

 

 浅田次郎さんはそもそも「義理」とは何かについて言及している。「義理」はどうやら日本の造語で「対面上なさねばならぬこと」という意味に発展した。近松や黙阿弥の戯作は「義理」の応酬なのだそうだ。

 中世・近世の時代から私たちの御先祖様は「義理」をどうするか、悩んできたわけ。「義理チョコ」という発想も日本ならではのもの。やっていることは西洋風でも、DNAはごまかせない。

 

 伊集院光さんのエッセイは、切なくほろ苦い。

 6年生の少年・健くん(伊集院さんの本名)は、ホワイトデーの意味を知らなかった。2歳上のお姉さんに、「3月14日はバレンタインデーの逆の日だ」と教えてもらって、男子が女子に告白していい日だと勘違いしてしまう。ホワイトデーに、クラスの憧れの女子・裕子ちゃんの机の中に、そうっとチョコレートをしのばせるが・・・

 

 38人いれば38通りのエピソードがある。ひとつひとつ味わって読んでいるのに、あっという間に最後の話まで来てしまった。まるで、一口サイズのバラエティーチョコの詰め合わせのような本だ。バレンタインデーの前後にどうだろう? 甘いチョコはどうも・・・という大人におすすめ。

 残念なのは、エッセイが書かれた年が明記されていないこと。2017年の出版なのだが、ひとつひとつのエッセイの執筆された年代はまちまち。推察するに、出版年である2017年より10年以上前のものも多い。社会現象的なことを取り上げたエッセイも多いので、執筆年は大切。出典が明らかになっているので調べればわかるのだろうが、ここはぜひお願いしたいとおもう。

 

 ここまで読んでくださりありがとうございました。

 

 

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