今週のお題「わたしとバレンタインデー」
バレンタインデーと言えば思い出す光景があります。
中学生の頃だったでしょうか。父が、バレンタインデーにチョコレートをいただいてきました。手のひらにちょこんと乗るような小さな包みで、金色のラッピング。おもちゃのカギもついています。「私のハートを開けられるのはあなただけ」というメッセージカード付き。
「お掃除のおばさん(この言い方、適切ではないのですが、再現させていただきます。すみません。)にもらったんだよー」という父をチラリと見た母は、包みをひっくり返し、ためつすがめつした後に、「フン」と言いました。それから私に、「あなた食べれば?」。
おしゃれな包みに心惹かれる一方で、いつもは見ないような母の対応に、戸惑ったことを昨日のように思い出します。「お掃除のおばさんからなんだから、いいじゃない?」と当時の私は思ったのですが、あれ、実際、お掃除の方からいただいたんでしょうか? いわゆる義理チョコにしては、かなりハイセンスでしたよ、お父さん。この歳になって、私も、母の「フン」が、何となくわかります。
今日、職場の人と、「子どもの頃にバレンタインデーってやっていたっけ?」という話題になりました。ちなみにこれ、50代のおじさんとおばさんの会話です。それで、おじさんが、「小学生の頃、チョコをもらった思い出はあるけれど(嬉しそう)、あの頃は義理チョコの習慣はなかったなぁ」と言いました。バブル期にOLやってた50代のおばさん(私)が「子どもの時に義理チョコはなかったけれど、若いとき、会社で女子社員から男性社員全員にチョコレートを配る、組織的な義理チョコやってましたよ。それにしても義理って考え方、ちょっと失礼ですよね。」と言うと、「あぁ、でも、義理でも貰うと嬉しかったよねぇ・・・」とおじさんがしみじみ言いました。あ、そうなんだ。
ひとくちに「義理チョコ」といっても、その実態はいろいろです。職場内で配る「いつもお世話になってます」みたいな義理チョコは、旅行のお土産を休み明けに机の上に配るのに近い感覚。「義理って考え方、失礼ですよね」と発言してしまった私ですが、こういう義理チョコならいいんじゃないですかね? 義理にしちゃ、心がこもってます。
一方で、かなりハードな「義理チョコ」を見たこともあります。バブル期の銀行員だった時。そう、組織的義理チョコをやっていた時ですね。同じ2月14日に、「生命保険会社の外交員の女性」も、休憩時間に男子行員にチョコレートを贈っていました。外交員さん、日常的に社員食堂を訪ねられ、行員の食事時に隣に座ってセールスされます。私はそれがとても憂鬱だったのですが、営業の男性陣は、本当に上手に応対していたものです。で、この日の贈り物は、チョコレート。その辺で買ってくるような「義理チョコ」ではなく、有名メーカーの高級チョコレートの包装紙でした。お返しはどうなったのでしょう? 「ところで、ご加入いただいている保険の見直しプランを持ってきました」とすかさず次の話題になったりして、これはタイヘン。
義理チョコには、もらって嬉しいのと、ちょっとハードなのとがあるようで。この違いはいったいどこにあるのでしょうね?
ここ何年も、バレンタインデーには息子にどっさりチョコレートクッキーを焼いています。ひとつももらえなかったら、かわいそうですからね。すみません、バカ親で。「わーい、全部ぼくが食べるぞ!」と言ってパクついていたかわいい息子でしたが、すっかり成長しました。クッキーを焼いたところで、ウンでもなくスンでもなく、でもやっぱり一人で全部食べてしまいます。
先日、雑誌か何かで、「バレンタイン 今年もおかんのチョコばかり」とかいうような一般公募の川柳を見て、いい加減、こりゃやめた方がいいのかなとふと考えてしまいました。子離れせねば。ヤツはペロッと平らげてはいるが、ウザイと思っているかも・・・ しかし、今までやっていたものをやめるのもなあ・・・ やめどき、サンタさんのプレゼントみたいに、難しいなあ・・・
ああでもない、こうでもないと考えていて、ありゃ、これじゃあ義理チョコみたいだなと思ってしまいました。いかんいかん、これは義理ではないよ、母の気持ち。母の「愛」というと重いから「気持ち」ね。
「義理チョコ」というと失礼な感じがするのはそこに「気持ち」がこもっていないから。打算とかの「気持ち」ではなくて、相手を思いやる「気持ち」。
よく「義理と人情」っていうけれど、バレンタインデーの義理チョコは、「義理」に「人情」も伴っていないと、寂しいものになってしまう。
今年のバレンタインデーも、チョコレートメーカーの思う壺にはまりながらも、全国津々浦々で、たくさんの人たちが人情に癒されますように。
なんか壮大な話になってしまったので、ここらでおしまいに。