本と砂糖壺

本と散歩と、あれこれ

バレンタインデーの義理と人情

今週のお題「わたしとバレンタインデー」

 

 バレンタインデーと言えば思い出す光景があります。

 中学生の頃だったでしょうか。父が、バレンタインデーにチョコレートをいただいてきました。手のひらにちょこんと乗るような小さな包みで、金色のラッピング。おもちゃのカギもついています。「私のハートを開けられるのはあなただけ」というメッセージカード付き。

 「お掃除のおばさん(この言い方、適切ではないのですが、再現させていただきます。すみません。)にもらったんだよー」という父をチラリと見た母は、包みをひっくり返し、ためつすがめつした後に、「フン」と言いました。それから私に、「あなた食べれば?」。

 おしゃれな包みに心惹かれる一方で、いつもは見ないような母の対応に、戸惑ったことを昨日のように思い出します。「お掃除のおばさんからなんだから、いいじゃない?」と当時の私は思ったのですが、あれ、実際、お掃除の方からいただいたんでしょうか? いわゆる義理チョコにしては、かなりハイセンスでしたよ、お父さん。この歳になって、私も、母の「フン」が、何となくわかります。

 

 今日、職場の人と、「子どもの頃にバレンタインデーってやっていたっけ?」という話題になりました。ちなみにこれ、50代のおじさんとおばさんの会話です。それで、おじさんが、「小学生の頃、チョコをもらった思い出はあるけれど(嬉しそう)、あの頃は義理チョコの習慣はなかったなぁ」と言いました。バブル期にOLやってた50代のおばさん(私)が「子どもの時に義理チョコはなかったけれど、若いとき、会社で女子社員から男性社員全員にチョコレートを配る、組織的な義理チョコやってましたよ。それにしても義理って考え方、ちょっと失礼ですよね。」と言うと、「あぁ、でも、義理でも貰うと嬉しかったよねぇ・・・」とおじさんがしみじみ言いました。あ、そうなんだ。

 

 ひとくちに「義理チョコ」といっても、その実態はいろいろです。職場内で配る「いつもお世話になってます」みたいな義理チョコは、旅行のお土産を休み明けに机の上に配るのに近い感覚。「義理って考え方、失礼ですよね」と発言してしまった私ですが、こういう義理チョコならいいんじゃないですかね? 義理にしちゃ、心がこもってます。

 一方で、かなりハードな「義理チョコ」を見たこともあります。バブル期の銀行員だった時。そう、組織的義理チョコをやっていた時ですね。同じ2月14日に、「生命保険会社の外交員の女性」も、休憩時間に男子行員にチョコレートを贈っていました。外交員さん、日常的に社員食堂を訪ねられ、行員の食事時に隣に座ってセールスされます。私はそれがとても憂鬱だったのですが、営業の男性陣は、本当に上手に応対していたものです。で、この日の贈り物は、チョコレート。その辺で買ってくるような「義理チョコ」ではなく、有名メーカーの高級チョコレートの包装紙でした。お返しはどうなったのでしょう? 「ところで、ご加入いただいている保険の見直しプランを持ってきました」とすかさず次の話題になったりして、これはタイヘン。

 義理チョコには、もらって嬉しいのと、ちょっとハードなのとがあるようで。この違いはいったいどこにあるのでしょうね?

 

 ここ何年も、バレンタインデーには息子にどっさりチョコレートクッキーを焼いています。ひとつももらえなかったら、かわいそうですからね。すみません、バカ親で。「わーい、全部ぼくが食べるぞ!」と言ってパクついていたかわいい息子でしたが、すっかり成長しました。クッキーを焼いたところで、ウンでもなくスンでもなく、でもやっぱり一人で全部食べてしまいます。

 先日、雑誌か何かで、「バレンタイン 今年もおかんのチョコばかり」とかいうような一般公募の川柳を見て、いい加減、こりゃやめた方がいいのかなとふと考えてしまいました。子離れせねば。ヤツはペロッと平らげてはいるが、ウザイと思っているかも・・・ しかし、今までやっていたものをやめるのもなあ・・・ やめどき、サンタさんのプレゼントみたいに、難しいなあ・・・

 ああでもない、こうでもないと考えていて、ありゃ、これじゃあ義理チョコみたいだなと思ってしまいました。いかんいかん、これは義理ではないよ、母の気持ち。母の「愛」というと重いから「気持ち」ね。

 

 「義理チョコ」というと失礼な感じがするのはそこに「気持ち」がこもっていないから。打算とかの「気持ち」ではなくて、相手を思いやる「気持ち」。

 よく「義理と人情」っていうけれど、バレンタインデーの義理チョコは、「義理」に「人情」も伴っていないと、寂しいものになってしまう。

 今年のバレンタインデーも、チョコレートメーカーの思う壺にはまりながらも、全国津々浦々で、たくさんの人たちが人情に癒されますように。

 なんか壮大な話になってしまったので、ここらでおしまいに。

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『また、同じ夢を見ていた』を中学生が好む理由(わけ)

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『また、同じ夢を見ていた』(住野よる/著 双葉社)

 私は学校司書をしています。学校司書とは学校図書館(図書室・・・と呼ばれることが多いですが)の担当者で、小学校などでは「図書の先生」とか言われたりしている人たち、と言えばイメージいただけるでしょうか。

 私の場合は中学校で働いていますが、昨年11月に、朝の全校一斉読書でクラスの友だちに読んでもらうために、生徒が家から(あるいは図書館で借りて)本を持ってくるという試みがありました。終了後、生徒およそ600人が実際に持参した本について冊数を集計してみたところ、ダントツの1位が『君の膵臓をたべたい』(住野よる)でした。そして以下、次のように続きます。

2位 「5分後に意外な・・・」シリーズ 『ぼくらの七日間戦争』(宗田理)

3位 『かがみの孤城』(辻村深月) 『また、同じ夢を見ていた』(住野よる)

 

 「5分後」シリーズは、どこからでも読める短編集。オチがあって面白い。一昔前の星新一さんや阿刀田高さんのシート・ショートみたいな感じですね。朝読書という、限られた時間で読むという状況を考慮して選んだ可能性もあり。それで2位になったのかもです。

 宗田理さんの「ぼくら」シリーズは、不動の人気のベストセラー。「七日間戦争」は1970年代の設定ですが、自分たちと同年代の子どもたちが主人公だという親しみやすさと、子どもが団結して大人に立ち向かうという驚きが、時代の古さを感じさせない魅力となっているようです。さすがですね。力のある作品です。

 『かがみの孤城』は、2018年の本屋大賞。話題の本には敏感な子どもたちです。加えて、やはり同年代の子どもたちが主人公なので感情移入しやすく、特に不登校を扱っているので子ども自身、深く考えさせられる内容でもあります。そして、鏡の向こう側の異世界という設定の斬新さ、不思議さが、心をつかんで飽きさせない仕掛けになっています。ついでにちょっとネタバレ的になってしまいますが、最後のどんでん返しも。

 

 とまあこんなわけで、選ばれるのには理由(わけ)がある。納得のいく作品たちですが、住野よるさんについては、すみません、私はいまひとつわからないのです。ダントツだった『君の膵臓をたべたい』については、「泣ける」とか「感動した」とか「何回でも読みたい」とかきくのですが、私は一回読めば十分だったかなあ・・・ 「意外なラストにびっくりした」という感想も多いのですが、確かに意外だったけれど、腑に落ちない感じを持ってしまいました。

 『また、同じ夢を見ていた』も同じ住野よるさんの作品なので、これはいいかなと手に取らなかったのですが、ここまで人気ならば、職業柄読まないわけにいきませぬ。モグリになってしまう・・・

 

 なぜ、住野よるさんの小説は中学生に人気なのか? 「膵臓」ではわからなかった答えが、「また、同じ夢を」では見つかるかも。そんな思いで読んでみましたところ・・・

 

 そうですね、これは合点がいくかもです。ふしぎなからくりが、最後に解けるということになっているのですが、完全にはわからない。設定の不確かさのようなものが残っていてモヤモヤした読後感なのが残念。一方、「幸せとは何か」を探すというのがテーマとして終始一貫していて、そこはすごくわかりやすくよかったです。最後に幸せについて答えのようなものも導き出されていて、そういう点ではすっきりします。

 過去や未来が交差する時間の流れがあることに途中から気づき始め、最後、結局本当はどこが夢なのか、ふと気になったりします。この不思議な感じが魅力なのかもしれません。さっき、モヤモヤ感が不満と描きましたが、モヤモヤ感こそが好まれているのかな・・・

 自分は何者なのか、自分は何者になっていくのか、定まらず、予想もつかずモヤモヤしている10代の子どもたちの心情に、するりとハマる物語。この辺りが人気の秘密かなあと推察するに至りました。

 いい年の大人の私には意味の分からなかった『君の膵臓』のラストも、そう考えると、不確定な今を生きている子どもたちに共鳴したのかなと、少し合点がいったのでした。

 

 ここまで読んでくださりありがとうございました。

 

 

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折り紙で作るハートのしおり

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 バレンタインデーに、折り紙のハートのしおりはいかがですか? 作り方はとてもカンタン。

 折り紙は、10㎝×10㎝に切ったものを用意します。いろいろ試してみましたが、この大きさがちょうどいいです。

 

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まず、折すじをつけます。ていねいにしっかりつけると後が楽です。

 

①角と角を合わせて半分の三角に折ります。

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②いったん広げて、残りの対角線の折筋もつけます。

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③広げます。このように山折りの筋がついています。

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④白い方が表になるように、辺と辺を合わせて半分に折ります。

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⑤広げて、④でつけた折筋に合わせて、折筋をつけます。

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⑥広げます。このように折筋がついていることを確認してください。

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これより、ハート型に折っていきます。

 

⑦折筋に合わせて、三角にたたみます。

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⑧三角の頂点を片方の手の指で押さえて、横についている折筋に合わせて、もう片方の手の指で上側の紙をめくりあげるように引き上げます。この写真は、めくって引き上げようとしているところ。

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⑨上に引き上げて、このようにきちんと折り目をつけます。

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⑩ひっくり返します。(写真はひっくり返したところです。)f:id:hon-to-satoutubo:20190204212937j:plain

 

⑪三角の頂点をつまんで、下に引き下げます。

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⑫またまた、ひっくり返すと、写真のようになっています。

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⑬上の部分を、写真のように折ります。

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⑭上側をめくり、広げながら、割り折りします。

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⑮もう片方も、同様にします。

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⑯写真のように折ります。

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⑰写真のように折ります。

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⑱写真のように、上へ戻します。

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⑲ひっくり返します。(写真は、ひっくり返したところです。)

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⑳上の部分を下に引き下げます。

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㉑下向きの三角の頂点を、上に引き上げます。

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㉒ひっくり返して完成です。

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このように差してください。この写真は表紙に差していますが、読み途中のページに差して使ってくださいね。(本は『君たちはどう生きるか』吉野源三郎 マガジンハウス)

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いろいろな紙で作ると楽しいです。

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ここまでお付き合いくださりありがとうございました。

 






















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東京郊外野鳥の追っかけ 2019.02.02

 バードウォッチングが好きです。休日の午前中は、自宅周辺の川沿いの遊歩道を、デジカメ片手に散歩します。前回、前々回のブログでは、サギさんにカモさんと大きめの鳥さんだったので、今日は小型の野鳥をカメラに収めようと張り切って出かけたのですが・・・ 難しいですね。メジロさん、コゲラさん、シジュウカラさんなど、チラリと見かけたものの空振りでした。動きが速いし、樹の上の方でズームが効かないし、比較的近くにいても逆光だったり。さえずりが聞こえて、そうっと近づいていくと,途端に鳴きやむ鳥さんたち。し~ん・・・ 嘘のような静寂。このくらい用心深くないと、小型の鳥さんは生きていけませんね。さすが。

 

 そういうわけで今日の追っかけの成果は、コチラ。

 

コサギ

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 黒いくちばしが特徴の小型のサギ、その名もコサギさん。

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 熱心に歩き回って、お魚を探していました。

 

ダイサギ

 

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 優美な姿の中型のサギ、ダイサギさん。

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 実はこの場所、地元では知る人ぞ知るカワセミスポットです。橋の上で待っていると、カワセミさんがお魚を獲ったりする姿を、かなりの確率でカメラに収めることができます。(この写真も橋の上から撮影しています。) カワセミさんはそんなに珍しいわけではないのですが、何といってもキラリと光るサファイヤ色の羽が美しく(川の宝石!)、人気があります。橋の上では迷彩柄の防寒具を着て三脚を立て、大きな望遠レンズのカメラを構えたおじさま方が待機していらっしゃり、その迫力に圧倒されて遠巻きにしてしまう私です。

 この時は正午を過ぎていたせいか橋の上は無人で、ダイサギさんが一羽、静かにたたずんでいました。

 

 優美な姿に会えた上に、飛び立つところをパチリできたので、ちょっと嬉しかったです。

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 今日は空振りが多く、サギさんもカモさんも少なかったですが、最後の最後にダイサギさんが2羽揃っているところを発見。探したりねらったりしないほうが見つかるんですね。そんなもん? 

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 パチリしたら、2羽とも川の上流へ飛んでいき、さらに右手(北の方向)の空に消えました。画面中央、2羽のダイサギサギさんが飛んでいるの、おわかりいただけますか?

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 そういえば、先日もダイサギさんがこの場所で、同じようなコース取りで飛び去っていったことを思い出しました。

 

 ここまでお付き合いくださり、ありがとうございました。

 

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冬の夜は怖いから

今週のお題「わたしの節分」

  クリスマス・イブ、除夜の鐘、節分。これらの共通点は、冬の夜、家の窓を開けた時に頬に当たるキーンと冷えた空気。そしていずれも、何かが起こりそうでミステリアスな雰囲気。子どもの頃、冬の夜が怖かった。

 

 とは言っても、クリスマス・イブは、怖いというよりはわくわく感が先立つもの。絵本などで、小さな男の子が窓辺で、トナカイのそりがやってくるかと夜空を眺めているシーンがよくありますが、私も同じようなことをしました。サンタさんはたぶん本当にはいないとわかっていたけれど、「もしかしたら鈴の音が聞こえたりして・・・。聞こえたらどうしよう?」なんて考えていました。しかも結構大きくなるまで。

 除夜の鐘も同様で、親が新しい年神様が来るなんて言っていたものですから、歳が切り替わるまさにその時、トナカイみたいに年神様が空を駆けると夢想してました。本気で思っていたわけではないのですが、そうだったらいいな、みたいに。たぶん、小さいときに母親に読んでもらった『ピーターパン』の本の影響かなと思います。ほら、ウェンディの部屋に、夜空から妖精のティンカーベルが飛んでくるではありませんか。あのイメージを抱いて、窓を開けて空を見上げると、星が瞬いていて、ゴ~ンと除夜の鐘が聞こえていましたっけ。和製ピーターパン?

 

 クリスマス・イブも除夜の鐘も、ミステリアスながら「あったらいいな」的な楽し気な空想でしたが、節分は怖かった。設定は一緒なんですけど、出てくるのは鬼ですから。しかも鬼は、空からではなくて、庭の茂みとか木の陰とかに潜んでいるんですから。

 家では、あらゆる出入り口から、豆まきをしました。ベランダ、勝手口、子ども部屋の窓、おまけにトイレの小さな窓からも。親はなぜか「ほら、子どもがやりなさい」と言います。しかも私、一人っ子なので全部やることになります。ガラガラガラっと雨戸を開けて、「まさか、まさか、鬼なんかいないよね? いたりして。いやいや・・・」。庭の植え込み、見たくないのに、見てしまう。とりあえず鬼はいない。

 大きな声を出すのが恥ずかしかったけれど、決心して第一声を出します。「鬼はー外!」バラバラバラ(豆の音) 鬼が逃げるのが見えたらどうしようと目をつぶる・・・

 玄関だけは父が豆まきをしました。その口上がかっこいいんです。

「鬼は外、福は内。天に花咲け、地に実が成れ。鬼の目玉をぶっ潰せ!」

 父は東京の人間ですが、父の父、つまり私の祖父が秋田の出身で、このような口上で豆まきをしていたんだそうです。ちなみに最近になって山県出身の人から、同じような口上だったと聞きました。

 大声を出すのが恥ずかしかったけれど、豆まきをするとそれに応えるかのようにお隣さんやお向かいさんの雨戸もガラリと開いて「鬼は₋外!」と聞こえてきます。あちらからもこちらからも、「鬼はー外! 福はー内!」と子どもの声でにぎやかになるのです。

 我が家では三人の子どもたちで豆まきをしていました。三人ならば、それほど恥ずかしくもなく、豆まきのハードルは低かったようです。この頃は子どもが成長してしまったので、仕方ありません。私が自分でやります。玄関のドアをちょっと開けて(うん、鬼はいない、大丈夫)、「オニハソト」とつぶやいてパラリ。これは明日の朝の鳥さんのおやつ。それから「福は内」と言って一粒食べます。床にまいたらお掃除大変だから。以上。ずいぶんいいかげんですね。

 それにしても、豆まきの声、一昔前のように聞こえてきませんね。子どもが多いところでは、そうでもないのかな? 神社での節分会を始め、イベントととしての豆まきの混雑はなかなかのものですし、昔は聞かなかった恵方巻もすっかり定着しましたね。でも、家で豆まきをするという習慣はどうなんでしょうか? 私はなんだかんだ言って、豆まきをやめることは出来ないです。なぜかって? そうですね、家まわりの鬼、祓うため? 冬の夜は怖いから。

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東京郊外野鳥の追っかけ 2019.01.27

  子どもの頃、朝早く起きて、近所の神社に出かけるのが日課でした。境内の松の木に来るオナガを見るためです。目の覚めるようなブルーの鳥の姿にわくわくして、鳥の邪魔をしないように、じーっと息を詰めていたものです。

 今でも、野鳥観察が好きです。今時分は、休日にデジカメ片手に川沿いを歩いています。この時期にしか会えない冬の渡り鳥がいるからです。

 東京の郊外ですが、ありがたいことにまだまだ自然が残っています。散歩でパチリ出来た野鳥の写真を、少しずつ紹介します。今回は1月27日に出会ったカモさんやサギさんたちです。

 

 

アオサギ

 

 川沿いのアパートの屋根の上。この場所にはたいていアオサギさんがとまっています。日向ぼっこをしているのか、川面の様子を見張っているのか・・・?

 これはいったい、どんな体勢をとっているのか? 毛づくろい? それにしても首が複雑なことになっていませんか、アオサギさん?

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 次の瞬間、「え? なんですか?」とてもいうように姿勢を変えたアオサギさん。堂々至る風貌なので、「川の王者」と私は勝手に呼んでいます。

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ヒドリガモ

 

 体長49センチくらい。よくいるカルガモが61センチくらいなので、小さめのカモさんです。冬鳥ですので、今しか見ることができません。この写真に写っているのは雄。頭が薄い小豆色なのが特徴です。

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 左が雄、右が雌。雌は雄とセットでないと、私はヒドリガモと言い当てることができないのですが、ヒドリガモに限らずカモさんは、たいてい群れやつがいで一緒にいます。

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 このように仲良く散歩をしたりしています。

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オナガガモ

 

 初めてオナガガモを見た時、そのカッコよさにほれぼれとしてしまいました。名前の通り、尾羽が長く、ピンと張っているのが特徴です。体長75センチ。カルガモさんよりひとまわり大きいです。

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 こちらがオナガガモさんのつがい。オナガガモさんも冬鳥なので、この時期にしか会えません。

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カルガモ

 

 さっきから大きさの基準にカルガモさんを引き合いに出しているので、写真をアップしますね。1年中どこにでもよくいるカモさん。くちばしの先が黄色いのが特徴です。川を散歩していて、「あれれ? なんか珍しいカモさんがいるぞ。」と近づいて見るとくちばしの先が黄色くて、「なんだ、カルガモか」なんて思ってしまうことも。ごめんなさい。

 春になると一斉にかわいい赤ちゃんが生まれて、親子ですいすい泳ぐほほえましい様子も見られます。にわかに人気が出て、カメラ片手に人が集まることも。人間って勝手。

 そうそう、カルガモさんは雄も雌も、姿にほとんど差がないです。男女平等?

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ダイサギ

 今回はダイサギさんの飛んでいる姿をカメラに収めることができました。タイミングが難しいんですよね。もっとうまく撮れるようになりたいなあ。カメラの問題もあるかな? でも性能がいいカメラは高いだろうなあ。まずは腕を上げよう。

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 羽を膨らませているの、わかりますか? この直後に飛び立ちました。こういうシャッターチャンスを、うまくとらえられるようになりたい。

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 静かにたたずんでると、本当に優雅な姿のダイサギさんです。

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 カモやサギばかりの紹介になってしまいましたが、カワセミやキセキレイなど、小さな鳥もたくさんいます。ただ小型の鳥は撮影が難しいんです。いつかご紹介出来たらなあと思います。

 

ここまでお付き合いくださり、ありがとうございました。

 

 

原田マハ『暗幕のゲルニカ』はどこまで史実か?

 こんにちは。できたてホヤホヤブログ「本と砂糖壺」へようこそ。このブログ、読書6割&散歩3割&くらし1割のつもりなのですが、今回初めて、メインのつもりの本について書きます。

 

 今回書かせていただくのは、原田マハさんの『暗幕のゲルニカ』です。

 この本を読もうと思ったのは、以前池上彰さんが、スペインの近現代史についての番組で取り上げていらっしゃったからです。

 話題作でしたので知ってはいたのですが、興味がわかず手にしていませんでした。原田さんの作品、何作か読ませていただいていますが、最近の作品『奇跡の人』を読んだときに、史実のパロディーみたいな内容に違和感を覚えてしまったからです。

 

 読んでいらっしゃらない方のためにざっくり説明しますと、『暗幕のゲルニカ』は、絵画の巨匠ピカソが渾身の思いを込めて描いた絵画「ゲルニカ」をめぐり、制作当時の1940年代と現代の2003年との二つの時間軸が並行して展開されるサスペンスタッチな物語です。主人公は二人の女性。1940年前後の時間軸のドラ・マールと、2003年の時間軸の八神瑤子です。

 ドラ・マールは、実在の人物で、ゲルニカ制作時にピカソと付き合っていた女性です。当時としては珍しい女性の写真家でした。賢く才能あふれる芸術家でしたが、ピカソとつきあう他の女性たちへの嫉妬に身を焦がす「泣く女」のモデルとして知られています。巨匠ピカソと並んでは、彼女の才能が引き立てられることは難しかったのかもしれません。そんな彼女自身の作品で有名なのは、ピカソがゲルニカを制作する過程を記録した写真の数々です。『暗幕のゲルニカ』では、ドラ・マールの心情に沿って、緊迫感を持った筆致でピカソとゲルニカと戦時下のパリを描いています。

 もう一人のヒロインの八神瑤子は、21世紀のニューヨークを舞台に活躍するニューヨーク近代美術館(MoMA)のキューレーター(学芸員)です。10歳の時に両親に連れられて行ったMoMAでピカソのゲルニカを見てその魅力に取りつかれ、ピカソの研究家になりました。そんな瑤子が全力で成し遂げようとしている仕事は、2003年開催の企画展「ピカソの戦争」です。企画展には、かつてはMoMAが、現在ではスペインの美術館レイナ・ソフィアが所蔵している「ゲルニカ」を展示したいと切望しています。なぜなら、「ゲルニカ」は、祖国スペインのゲルニカ地方がドイツ・ナチスに空爆されたことに衝撃を受けたピカソが、強い反戦のメッセージを込めて描き上げた大作だからです。そしてもう一つ、9.11の同時多発テロの犠牲になった夫への思いも、これを成し遂げたいという理由になっていました。しかしながら、「ゲルニカ」を借りる交渉は、搬送の難しさを理由に固辞されてしまいます。ならば、平和の誓いの象徴として国連本部の壁にかけてある複製のタペストリー(もちろんゲルニカの複製です。しかもピカソの監修による世界に3つしかないうちの1つ)でもよいのではないかという方向に傾いていたのですが・・・

 そんな矢先、アメリカ政府によるイラクへの空爆が開始されました。国務長官が国連本部でそれを発表する映像を見て、人々は息をのみます。国務長官の後ろに、いつもなら「ゲルニカ」のタペストリーがかかっているのに、この日は何か都合の良くないものでも隠すかのように暗幕がかけられていたからです。いったい誰が、なんのために?

 美術を通して世界の平和を訴えよう。それには、タペストリーではなく、本物の「ゲルニカ」をMoMAに展示しよう。瑤子は決意を新たに「ゲルニカ奪還」に挑むのですが、果たして・・・

 

 「ざっくり」と言っておきながら長くなってしまいました。ともあれ、このように2つの時間軸の物語が並行して進行していくのですが、両方の時代に共通して登場する、パルド・イグナシオという人物がいます。1940年前後では、スペインの富豪の御曹司でパリに亡命中の若き青年、2003年ではスペイン政府とも芸術界ともコンタクトを持つ大富豪です。物語展開上のキーマンといっていいでしょう。

 ところでこうした創作を読むとき、私はどうしても、「どこまでが史実でどこからが創作か」非常に気になってしまうのです。「事実は小説より奇なり」とも言われますように、ノンフィクションの作品を読むのは大変興味深いです。かたや史実を基にした創作となると、オリジナルティはどこにあるのだろうとか、いっそ全部創作の方がよいのではないかとか、失礼を承知でそんな考えがよぎったりしてしまいます。たぶんこれは、私の趣向の問題なのだと思いますが。

 そういうわけなので、今回も面白い設定ながらどこか冷めた気持ちで読んでいたのですが、ラスト近くになって、ふっと霧が晴れたような感覚を味わいました。本の末尾には次のように記されています。

本作は史実に基づいたフィクションです。

二十世紀パートの登場人物は、架空の人物であるパルド・イグナシおとルース・ロックフェラーを除き、実在の人物です。

二十一世紀の登場人物は、全員が架空の人物です。架空の人物には特定のモデルは存在しません。

  「そうか、2003年の物語はすべて創作で、キーマンのパルドも架空の人物なのか・・・」と思ったら、どこからどこまでが史実で?などというのは些細なことに思えてきました。「ゲルニカ」はどのように創作されたのか、21世紀に「ゲルニカ」はどのような意味を持って世界の人びとの前にあるのか。「ゲルニカ」を題材に、作者の原田マハさんが自由に思いのたけを作品にしたのだなと、納得しました。「自由に思いのたけを」なのですから、ラストはどうにでもなるのですね。

 

 「スペインに真の民主主義が訪れるまで保護してほしい」というピカソの希望で、ニューヨークのMoMAに長らく収蔵されていた「ゲルニカ」は、1981年にスペインに返還され、1992年にソフィア王妃芸術センターに展示されるようになってからは、実際には一度も他館に貸し出されたことはありません。これが史実です。では小説は? うなるようなラストにご期待ください。

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